ex.秋のまほろば

そこにはなにも。

2025/11/27

およそ一年ぶりに日記を書く。特筆するべきことがないといえばなかった1年だったし、あるといえばあるという一年でもあった。

思い出を残す、というよりは何を考えていたか、どう感じたかばかりを書いている日記をほそぼそやっていたと思う。事実だけを記したと言うにはあまりにも内面的だった。

言葉にするという行為は気持ちの整理のために。つらい気持ちや嬉しい気持ちや、その日の気分やなにがしかを、いつどんな自分が見てもわかるように記しておくという行為に近い。

短歌を昔ほど精力的に作らなくなって幾ばくか過ぎた。
先日短歌で繋がったフォロワーの「もう短歌をしなくても生きていける」という投稿を見て、多分自分も同じだと思った。昔、恋人ができてから短歌を詠めなくなったという人を見て、「本当にそうなのか」と不思議に思ったことを思い出した。

短歌は好きだ。当時の景色や抱えきれない思いや、それにまつわる色々なものを三十一文字の中に詰め込んで、それが一つの作品になる。文字数の上限という制約の中で可能な限り解像度高くそれを収めるために、あるいは読む人の想像力によって補われる部分が、自分の想像と同じものになるように最善の努力を尽くす。そうやって生まれた一種の短歌が好きだ。

でももう、短歌をしなくても生きていけるのだ。

感受性が消えていっている、というのが正しいかもしれない。短歌にしなくとも、気持ちを整理できるだけの余裕が生まれたと言えるのかもしれない。

昔は、短歌や小説を含む、なにか創作活動をしていることが自分のアイデンティティの一つだと思っていた。でももう、それをアイデンティティとして保つ必要もなくなったのかもしれない。「創作をしている自分」が消えてなくなったとしても、確固たる私を確立したのか。それともそんな私がなくとも、私が何者でなくとも生きていけるようになってしまったのか。

久しぶりに音楽を聞いた。昔、小説を書いていたときにその作品のテーマソングにした曲だった。

もう何年も経つというのに、当時考えていたことや、その作品のこと、その作品を通して出会った人たちや、その人たちと重ねてきた思い出。そのすべてが今でも鮮明に思い出されて、なんだか少し泣きそうになる。

2024/03/20

同じものが好きな人だけの空間というのは、非常に心地が良い。もっと上手くなりたいとか、面白いことをしたいとか、そういう野心みたいなものを覗かせる人だけの空間は空気が良い。自分主導で「なにかやるぞ!」という気持ちはかなり薄い方だと思っているけど、やる気のある人が周りにいると、その人にだけは負けたくないっていう対抗心がふっと湧き上がる、ような気がする。

久しぶりの歌会に参加してきました。去年7月の「屋上と短歌」からおよそ半年。その間に発表したのはネットプリント2つと同人誌1冊のみ。 いい短歌と好きな短歌の違いはどこにあるか、良い短歌とはなにか、自分は目指すのはどこか、いろいろなことを悩みながらの参加になったと思います。


むかし小説のようなものを書いていたときから、日本語は常々リズムだと主張していました。本を読むときに頭の中で声に出す人が多いからこそ、声に出したときのリズムが一番大事だと思っていました。 だからこそ、出詠した短歌もリズムが印象に残ったという感想を頂いたときにとても嬉しかったことが印象的です。自分のこだわりが伝わるというのは、とても良いことですね。

2024/01/29

去年のクリスマス前にできた彼女から、別れを告げられた元旦。何が起きたのか理解できないまま、惰眠を貪っていた最中鳴り響く津波注意報、燃え盛る飛行機。二十数年の人生史上もっとも最悪な年末年始である。

あまりにもあっけない失恋の傷はそう簡単に癒えるはずもなく、ただひたすら忘れたくて色々な人に連絡を取ったと思う(その節は大変失礼しました)。数カ月後まで控えていた約束が全部なくなって、途端にからっぽな日々になった。まだ浮ついていた気持ちだけ、一人で弄んでいた。

お酒の勢いに身を任せてマッチングアプリなるものを始めてみたけど、それもうまくいく気配がない。約束の先延ばし。やり取りののスルー、人間不信が加速していく。いくら市場が相手に有利でも。

男性として生まれてきたことを憎たらしく思う。なんでだろうと思う。

ただただ誠実でありたい。約束はまもって、終わらせるべきことをきちんと終わらせる。もらった恩は忘れず、返せるものの精一杯を返す。そうして自分の大事なものをしっかり守って、生きていきたい。

2023/07/19

疲れとか、暑さとか、色々なものを言い訳にして、日曜日の振り返りを火曜の深夜(もう水曜)にやろうとしている。別になんの問題もないのだけれど、先送りで溜まった課題を消化している感じがして自分に嫌気がする。

日曜日は人生初の歌会に参加した。各自テーマに沿った短歌を持ち寄って、それについて意見感想その他諸々語り合う会。

自分が持っていったのは昔の自分を思い出して作った短歌。二度と叶うことのない「またね」という約束をいくつか抱えていて、その寂しさのことを思い出していた。覚えているのは多分自分だけで、それも余計に寂しさを加速させる。あの夜は雨が酷くて、それも余計に嫌。

歌会に参加することの意義は、他人の歌の読み方を直接聞ける事、「他人が歌をどう読むか」を言語として受け取れることにあると強く実感する。一人で創作して、なんとなくTwitterに流しているだけじゃ分からないことが歌会でふわっとあきらかになることもある。

「短歌は書いていないことを読むのが難しい」という主催の方の発言が、とても心に残っている。一首だけ出す場合だと、小説の「行間を読む」みたいなことができないんだと思う。
小説で言うところの三人称視点の描き方が短歌一首だけだと難しいということなんだろう。短歌は一首だけあると、どうしても「私の視点から見た」の意識が強くなってしまう。窓の外を降る雨は「私の目からみて雨が降っている」だし、君の声は「私の耳に届いている君の声」になる。

だから「わたし」と「あなた」がいる風景を俯瞰で切り取ったり、私と貴方とそれを取り巻く風景、みたいなのを全部まとめて表現し切るのが難しい。

創作のモチベーションは一枚の絵を作ることと似ているというのを、ぼんやりと考える。人を大きく描いた人物がではなくて、風景の中に人がいる、みたいな。主人公がいて、それを取り巻く人がいて、その人が暮らす街があって、生活があって、そういうものをつくりたいと思う。でもそれをするのに短歌はあまりにも不向きで、だから連作にしたり、短歌条例にしてみたりという手段があるんだと思うけど、その時、小説と短歌と連作と、その境界線はどこに生まれるんだろうと、そういうことばかり考えている。

2023/05/31

およそ3ヶ月ぶりの日記らしい。怒涛といえば怒涛。何もないといえば何もない。そんな3ヶ月なので当然、日記として書けることなど何もない。


仕事がある日は何か個人的な趣味をやる体力みたいなのはなくて、家に帰る→ご飯を食べる→原神のデイリー消化→ねるを繰り返している。

好きなゲームも「デイリー消化」なんて書き方をすれば途端に義務感がでて、すごく嫌な感じ。


 

二週間くらい前、文フリに行きました。一回前は好きな出店者が出ていなかったのでちょっと久しぶり。

大好きな出店者さんのところへ挨拶に行き、たくさん本を買い、フォロワーと会って昼から酒を飲む。イベントのたびに似たような過ごし方をして、それでもなお幸せだなと思います。

フォロワーと短歌の話をして、ちょっと火がついたので仕事の合間を縫いながらなにか出せるように頑張ろうと思いました。

フォロワーと一緒だから頑張れると思うので、続報にごきたいくだ

2023/03/12

f:id:u_rei_chan:20230312235332j:image

美しさとか綺麗とか可愛さとか、そういう人の動きの美というのは、その一挙手一投足が終わった後の指先や髪の揺れに全てが現れると、そう実感せざるを得ない。

ひらひらとゆれる衣装や、客席に視線を投げたその一瞬、そんなきらきらした瞬間に心を打たれることはあるかもしれない。でもやっぱりそんな時よりその所作の終わりの、目線を外したり、髪の毛が顔の動きに遅れてふわり揺れたり、そんな誰も気にしていないような瞬間に、その人が今の舞台や、その動き、楽曲に込めた本当の気持ちが伺えるような気がして。

 

共有している時間は永遠のような気がして、でもその実そんなことはなくて、だからこそ去り際のその一瞬が、どんな時より一層大事なんじゃないかと、友人と会うたびにそんなことを考えている。 今の関係だっていつまで続くか分からないから、なおさら別れ際が惜しい。

三年ぶりに会えた、五年ぶりに会えた、高校卒業以来、大学卒業以来、どれだけ長い時間がたっても、「また今度」が成立するのはきっと偶然じゃないから、それが当たり前だってだれも保証してくれないから、だからどれだけ時間が経っても、大事にしたいんです。自分のために時間を作ってくれる人を。どれだけ時間が経ってもいつも通り接してくれる人を。

2023/03/02

いいものを見たり聞いたりすると、「うわ、自分もこれやりたいなあ」って思う。

最近は仕事柄よく新聞を読むので、各全国紙の新聞歌壇を読むのが密かな楽しみ。色々と方向性はあるけれど、毎日歌壇が一番今っぽい短歌が多い気がする。きっとこのあたりは選者によるところが大きいのかもしれないが、毎日歌壇の選者は今っぽい短歌を選ぶ人が他より多い、気がしてならない。

小説でも短歌でも、いいものを見ると当然火がつく。自分もこれくらいできるはず、やりたいつくりたい、そういう気持ちがぶわっと湧いて、ただその後に一瞬で消える。

書きたいと思えば思うほど、書きたいことが自分の中にあまりないことに気づく。書きたい気持ちばかりが先行して、肝心の中身が伴わない。空回りといってもおかしくない。

書きたいものが無いからって何も生み出さない日々を何日も何日も何日も過ごして、そうして書きたい気持ちが徐々に徐々になくなっていくのを感じて、ああまたいつも通りって。でも心のなかで、何も書いていない自分が嫌いになっていってそれでまたぼんやりなにか書きたい気持ちだけがくすぶったままでいる。

お手洗いで手を洗いながら、オフィスの廊下をぼんやり歩きながら、駅で帰りの電車を待ちながら、どうしてこんなにも書きたいものが無いのか考えて、考えた結果、自分の中身がからっぽだったことに気がついた。ただ漠然と日々を過ごすだけで、自分の中に積み重なるものはなにもなかった。昔々に積み重ねたものは、とうの昔に吹き飛んでしまった。

自分には何もないと薄ぼんやりと思っていて、でもその裏ではいやきっとほんとうはそんなことなんて無いんだ、きっと何かあるはずだできることがあるはずだって信じていて、でも何もない空っぽな自分が真実で、それを裏付けるようにこの書きたいけど書けない今の自分がいて、駅から自宅までの道を歩きながら数度なきそうになる。