2023/07/19

疲れとか、暑さとか、色々なものを言い訳にして、日曜日の振り返りを火曜の深夜(もう水曜)にやろうとしている。別になんの問題もないのだけれど、先送りで溜まった課題を消化している感じがして自分に嫌気がする。

日曜日は人生初の歌会に参加した。各自テーマに沿った短歌を持ち寄って、それについて意見感想その他諸々語り合う会。

自分が持っていったのは昔の自分を思い出して作った短歌。二度と叶うことのない「またね」という約束をいくつか抱えていて、その寂しさのことを思い出していた。覚えているのは多分自分だけで、それも余計に寂しさを加速させる。あの夜は雨が酷くて、それも余計に嫌。

歌会に参加することの意義は、他人の歌の読み方を直接聞ける事、「他人が歌をどう読むか」を言語として受け取れることにあると強く実感する。一人で創作して、なんとなくTwitterに流しているだけじゃ分からないことが歌会でふわっとあきらかになることもある。

「短歌は書いていないことを読むのが難しい」という主催の方の発言が、とても心に残っている。一首だけ出す場合だと、小説の「行間を読む」みたいなことができないんだと思う。
小説で言うところの三人称視点の描き方が短歌一首だけだと難しいということなんだろう。短歌は一首だけあると、どうしても「私の視点から見た」の意識が強くなってしまう。窓の外を降る雨は「私の目からみて雨が降っている」だし、君の声は「私の耳に届いている君の声」になる。

だから「わたし」と「あなた」がいる風景を俯瞰で切り取ったり、私と貴方とそれを取り巻く風景、みたいなのを全部まとめて表現し切るのが難しい。

創作のモチベーションは一枚の絵を作ることと似ているというのを、ぼんやりと考える。人を大きく描いた人物がではなくて、風景の中に人がいる、みたいな。主人公がいて、それを取り巻く人がいて、その人が暮らす街があって、生活があって、そういうものをつくりたいと思う。でもそれをするのに短歌はあまりにも不向きで、だから連作にしたり、短歌条例にしてみたりという手段があるんだと思うけど、その時、小説と短歌と連作と、その境界線はどこに生まれるんだろうと、そういうことばかり考えている。